ちょっと古い記事ですが、以下、2本のマスコミ批判記事をアップします。

私の半生記(「反省記」かも)の詳細はWikipediaに載っていますが、もともとは週刊誌・夕刊紙の編集記者でした。小学館『週刊ポスト』の取材をメインとするフリーランスの雑誌記者をスタートに、1975年に創刊された講談社系夕刊紙『日刊ゲンダイ』の創刊スタッフとなり18年間、政治・社会・事件・国際・経済・企業ニュースの報道の最前線にいました。ギャンブルと風俗以外のジャンルは全て経験しました。

1993年夏、『日刊ゲンダイ』を退職して『日刊アスカ』の創刊編集局長となりました。首都圏第4の夕刊紙の創刊でしたが、123号、半年で事業閉鎖。その後は編集プロダクションの代表取締役専務に転じ、単行本や経団連の雑誌『月刊 Keidanren』などの編集を続けました。1996年9月、独立系出版社㈱金曜日に入社し、翌年4月から5年間『週刊金曜日』の編集長を務め、その間に200万部のミリオンセラーとなったブックレット『買ってはいけない』を出版しましたが、体調を崩したため自主定年を決め、退社しました。

退社後は再びフリージャーナリスとしてネットメディアを中心に記事を書いていましたが、東日本大震災・フクシマ原発事故を契機に「物を書くエネルギー源だった政治・社会への怒り」が次第に薄れてしまい、辛口評論やコラムの執筆よりも単行本のまとめ、企画・編集・リライトなどの出版サポートをして便利屋稼業と心身のバランスを保っています。

「日本の政治をダメにした大新聞」         (月刊誌『世界』1993年五月号「よみがえれ、言論」)

しっかりしろよ! 大新聞

 

「どうして、もっとハッキリ書かないのか」―― 毎朝、毎晩宅配される大新聞の政治記事を読むたびに、そんな歯痒さを感じるのは私だけではないだろう。今は、大本営発表による徹底的な情報管理がなされた戦前とは違う。立法、行政、司法の三権に取材網を張りめぐらしている大新聞が、政治改革、佐川疑惑、景気対策などについて、知り得た情報をもとに世論を喚起する記事を書くことは、マスコミとして果たすべき当然の役割なのだ。

 

ところが大新聞の記事は、大多数の読者=国民の意見と利益をほとんど代弁していない。それどころか、「世論調査で八〇%が竹下辞職を求めた」とか、「野党が一致して所得税減税を要求した」とかの“事実”を、評価、是非論を入れずに垂れ流し報道するだけ。こんな事実報道だけでジャーナリズムとしての役割を果たしたと勘違いしているのではないか。

「君たちはいいよな、書きたいことが書けて」。大新聞記者にこう言われることがある。そんな時、私は「ええ、僕らはアカ新聞ですからストレスなしですよ」と皮肉まじりに答えるようにしている。私達のように記者クラブから排除されている記者と違って、大新聞の記者は、いつでも取材対象に接近できる特権を持っている。しかも、数百万から一千万という発行部数があるのだから、世論に与える影響力ははるかに大きい。そうした彼らの特権的力と、現実の紙面の落差を見るたびに、「もっとしっかりしろよ」といいたくなる。それが私の本音である。

 

田中金脈は「知らなかった」

 

 大新聞の政治報道が批判される際、必ずといっていいほど引き合いに出されるのが、「文藝春秋」の「田中角栄研究」だろう。一九七四年十一月号で、時の総理大臣・田中角栄の「金と女」が暴かれた時、大新聞の政治記者たちは偉そうにこう言ったものだ。

「あんなことは知っていたよ。だが、知っていても書けることと書けないことがある。(取材対象に)会いもしないで書く雑誌記者と、毎日、顔を会わせなければならない俺たちとはそこが違うんだな」

もう二十年近くも昔のエピソードだが、当時、駆出しの雑誌記だった私は、この言葉にこだわりを持ち続けている。「あの時、本当に大新聞記者は知っていて書かなかったのだろうか」と。

 

二十年たった今、私の結論は「彼らは知らなかった」である。正確に言えば、大新聞の政治記者達は、児玉隆也氏(故人)が書いた「淋しき越山会の女王」の“存在”は知っていたが、そのことを公職者・田中角栄との関係から記事にすべきだという公益性を感じなかった。また田中角栄が金作りの名人で、土地転がしをしていたことを漠然と知っていたが、政治的カが金を生むことの重要性についても鈍感だった。ましてや立花隆氏が暴いた錬金術の詳細については、まったく知らなかったのである。「知っているけど書かない」のも、ずいぶん読者を馬鹿にした話だが、知らないくせに「知っていた」とふんぞり返るのは、もっと読者を馬鹿にした話ではないか。

 

なぜ、一社五~六十人もいる政治部記者達が夜討ち、朝駆けの密着取材をしながら読者が知りたい真相を書くことができなかったのだろうか。その理由のひとつが、「取材対象との悪しき仲間意識」、露骨に言えば「癒着」である。政治部に配属されて数年たつと、記者の人柄が変わるという。もちろん、生涯、気骨のある記者もいるが、大方の政治部記者は背広、ネクタイの趣味から、喋り方、考え方まで変わってしまうという。なかには歩き方まで、仲の良い政治家風になってしまう“大物記者”もいる。派閥記者が横行していた角栄時代には「政治部記者、特に自民党担当記者の着ているものは、社会部記者に比べて生地も仕立ても段違い」といわれていたが、今でも事情はさほど変わっていない。

何のためにキンタマを握るのか

 かつて、某大新聞の超有名記者にこう言われたことがある。
「政治部記者は政治家のキンタマを握るところまで接近せねば駄目だ」「政治記者は背中に派閥の看板を背負わねば一人前ではない」と。私自身は絶対必要な条件とは思わないが、時には、ネタを取るために相手の懐に飛び込むことも必要だろう。だが、ジャーナリストの使命は「キンタマを握ること」自体ではなく、何のために「握り」、 「握った」あとに何を引き出し、それをどうやって読者=国民に伝えるかだろう。相手の弱みを握るだけで報じないのだったらヤクザや総会屋と変わらない。某大新聞の超有名記者とは、読売新聞の渡辺恒雄氏である。

また、佐川急便事件の主役の一人で、ワリシン所得税法違反で逮捕・起訴された金丸信・元自民党副総裁が、昨年夏、マスコミの取材を避けて自宅マンションに籠城中、一緒に麻雀をし、土産までもらっていたベテラン政治記者がいたことは周知の事実だ。彼らは麻雀卓を囲みながら「金丸さん、佐川急便からもらったのは五億円だけですか」「竹下さんから頼まれて皇民党事件の解決をしたのでしょう?」と問いただしたのだろうか。それをしないでただ麻雀をしていたのなら、ジャーナリストではない。単なる麻雀仲間だ。

 

元・共同通信編集局長の原寿雄氏が『新聞記者の処世術』(晩聲声社)の中で「記者クラブを根城に、政界・財界・官界有力者たちと仲良くしているうちに考え方、価値観まで同化してしまうのはジャーナリストとして失格である」と書いているが、まったくその通りである。さらに問題なのは、知りえた情報を読者との接点である紙面にストレートに反映しないで、それどころか政治家に筒抜けになるという、信じられないような現実がある。例えば、有力政治家との懇談、夜回り情報などが、太新聞の紙面に載る前に他派関や他党に伝わり、有力な情報源となっている。これが現代の大新聞ジャーナリズムの裏側の真相なのである。

私自身、リクルート事件の頃、そうした、“極秘メモ”を入手していた。大新聞記者との「仲間意識識」の安心感からか、渦中の大物政治家たちが「俺は正規の株取引だから問題はないが、○○君や××君はちょっとまずいな。江副君もそれを心配している」「この事件が全部明らかにされたら、即、自民党はつぶれてしまう」と、赤裸々に実名を出して喋っていた。その話には発覚したばかりのリクルート事件の枠組みを知り、確かな見通しを立てるための、ダイヤモンドのような素材がギッシリ詰まっていたのだ。

ところが東京地検の強制捜査が始まるまで、大新聞の紙面には、こんな情報は議員名を伏せた形でも出てこない。それどころか「自民党首脳が○○氏と会い、リクルート事件の真相究明をすることで意見が一致した」というたぐいの表面的な事実が、背景説明なしで報じられる。これでは読者は何が問題なのかも分からない。まして自民党がトカゲの尻尾切りで逃げ切ろうと画策していたことも知ることができないだろう。

 しかも、この種の情報メモは記者の筆跡がバレないようにとの配慮からか、自民党議員の秘書たちが書き直していたのである。社会部記者達が「政治家絡みの事件の内容は絶対に政治部には教えない。連中に言うとターゲットに筒抜けになる」とボヤク理由がよく分かる。疑いたくはないが、職業上知りえた情報を金に変えている記者がいるのかもしれない。そんなことを考えると、暗澹とした気持ちになるのは私だけではないだろう。

批判を忘れたジャーナリズム

 

もちろん、なかには記者としての使命感、正義感に燃える記者もいる。韓国の全斗燥大統領来日の直前のことだ。当時の田中六助自民党幹事長 (故人)が定例記者会見で「俺は韓国は嫌いだ」と暴言を吐いた。

国際問題化を憂慮した幹事長室の要請を受けて、発言はなかったことにされた。当然、平河クラブ(自民党取材担当記者クラブの通称)に加盟する大新聞TVは書くわけにはいかない。だが、「こんな民族的偏見を持つ人物が与党の幹事長でいること自体、日韓両国民の友好のためにならない」という信念を持つ記者もいた。

 

その結果、まわりまわって田中暴言が私の耳にも入ってきた。私なりに裏付けを取って報道したが、その時、韓国ロビーのボスといわれる大物政治家達から「書かないで欲しい」と“要誇”があったことも忘れられない。それにしても笑止千万だったのは、一部の大新聞の記者たちの、その後の行動である。田中発言の裏にある日本人の民族差別に目を向けるどころか、「誰が日刊ゲンダイに喋ったのか」と、様々なルートで情報源を調査したのである。彼らの行動を見る時「取材すべき対象、批判すべき対象が違うんじゃないの」「そんな暇があったら政治家の疑惑のひとつでも調べろよ」と情けなくなった。

ともあれ、大新聞の記者は、「第四権力」と呼ばれるマスコミの社会的な役割と重みをもっと自覚すべきだろう。「いまどき、新聞は社会の木鐸(ぼくたくだなんて古いことを言うのは君達だけだ」と吐き捨てるように言う記者は多い。しかし、世の中に警鐘を鳴らすことを忘れたジャーナリズムに、何の存在価値があるだろうか。中央政界から地方まで政治腐敗を蔓延させた責任の何割かは、「警鐘を鳴らすごとを忘れた大新聞の悪しき客観報道にあるのだ。 

 

水に落ちるまでは叩かない仲間意識

 

一連の金丸報道がその典型例だろう。「黒駒の勝蔵」と呼ばれ、政治理念、哲学、政策の何も持ち合わせない政治屋で為ることをはじめから知りながら、大新聞は金丸信を「自民党のドン」と持ち上げてきた。 それが、脱税で逮捕されたとたん「水に落ちた犬は叩け」とばかり、手の平を返したような金丸バッシングに走る。「いまさら、偉そうなことを書くなよ」「金丸と付き合っていて、おかしいと思わなかったのか」と毒づきたくなるではないか。

政治家が国民の利益を守る代理人であるように、ジャーナリスト、とりわけ世論形成に大事な影響力を持つ大新聞の記者は、国民の知る権利の代理人であり、世論の道先案内人だと思う。朝日新聞は敗戦後間もなく、「国民と共に起たん」と題した宣言の中で「真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果たし得ず」と、大本営発表を垂れ流した報道責任を自己批判したが、昨今の報道をみると、その反省が現在の大新聞ジャーナリズムに生かされているとはとても思えない。

 

問われるジャーナリストの責任

 

今の時代、新聞が速報性でテレビに勝てるわけがない。いつ、どこで、何が起きたか、そんなことはテレビを見ていれば分かる。読者が大新聞に求めていることは、第一次報道としての速報性ではなく、その事実がどういう意味を持ち、裏に何があり、国民のためになるのかならないのか、などを的確に解説した報道である。例えば金丸・竹下問題では、「政局への影響」「小沢・羽田派はどうなるか」を競いあって報じることよりも、「疑惑事件の再発防止のために刑法一九七条(収賄罪) を改正し、政治家の贈収賄の適用範囲を広げるべし」とか、「不正な政治献金を受け取った政治家は二度と立候補できなくする政治倫理法をつくれ」といった主張をすベきだろう。

 

それも、限られた読者しか読まない「社説」ではなく、一面から社会面まで毎日の記事のなかで手を代え品を代え、繰り返しキャンペーン報道すべきだと思う。そのために大新聞は、いま起きていることだけしか見ない「いま主義報道」を廃すべきだ。金丸脱税事件、佐川疑惑、共和事件、リクルート事件、ロッキード事件……、それぞれがバラバラに独立した汚職事件ではない。全ては一九五五年の保守合同以来の自民党単独政権という「汚職の源流」から派生したものなのだ。そんな歴史の教訓を振り返りながら、今起きている出来事の意味付け、展開、見通し、予測、願望を、時代の証人、歴史に責任を負うジャーナリストとしての目で書きまくって欲しいものだ。遅々として進まない政治改革に拳を振り上げるよりも、「新聞改革」を推し進めることが、爛れた日本の政治、経済、社会の仕組みを正す近道ではないだろうか。大新聞の政治記事が世の中を正す「社会の木鐸」としての原点に立ち戻り、批判的、野党的な視点での報道に立ち返ることを願うばかりである。

「ジャーナリズムの墓標」

驚くべき問題意識の低さ、想像力の欠如

(宇都宮軍縮問題研究所『軍縮問題資料』2005年8月号より) 

 日本のジャーナリズムがおかしい。大新聞TVの姿勢に疑問を感じる。自衛隊海外派兵、イラク多国籍軍への参加、九条改憲の動き、日米同盟の軍事協力強化、政官財癒着による食いつぶし年金の後始末……歴史的変動期ともいえるこれらの問題に対して、「歴史の証言者」であるジャーナリスは何をなすべきか。今のマスコミ、ジャーナリストの問題意識の低さと想像力の欠如に不安を感じざるをえない。

 

戦場取材を避ける大マスコミ

 

これが憲法前文に〈恒久の平和を念願し……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し〉た「国」の取るべき行動だろうか。大新聞・マスコミが「社会の木鐸」であるならば、ペンの力をもってイラク自衛隊派兵阻止に総力を挙げるべきだった。百歩譲ってジャーナリズムの役割りを、「現実の政治と社会の動きを世の中に伝え、是非の判断は情報の受け手に委ねること」と限定しても納得できない。

それなら「イラク派遣軍の一挙手一投足を伝えること」が今日の最低の職業的義務だろうが、大新聞TⅤは、その義務すら果たしていない。連日の紙面、映像を見る限り、「広報報道」以外にサマワの自衛隊が何をしているのか、イラク国民が自衛隊をどう見ているか、戦場イラクで日米軍事同盟がどう一体化されているのか、という肝心なことが報じられない。こんな「音なしの世界」の中で、海外派兵の既成事実だけが積み重ねられ、「復興支援自衛隊」が閣議決定だけで「多国籍軍の一員」に変質してしまう。戦後ニッポンのタブーを一気呵成に廃し、戦後政治の総決算を企てる小泉自民・公明連立政権の好き勝手がまかり通っているのは、他ならぬ、わがマスコミ、ジャーナリズムの無力さが原因なのだ。

 

「イラク戦争なんてどうでもいい」との感覚

 

フリージャーナリストの橋田信介さん(61)と甥の小川功太郎さん(33)が、“殉死”した。「戦場ジャーナリスト」を自任していた橋田さん個人にとって、イラクは「最高の死に場」だったかもしれない。理想的な生き方=死に方だったに違いない。組織ジャーナリストは「会社の方針」に縛られ、創造的な取材すらできないからだ。アブグレイブで人質となった安田純平さん(30)が「イラクの戦争なんてどうでもいい」と言われ、信濃毎日新聞社を退社してイラク入りした事実はよく知られている。今、ジャーナリズムは何を報道すべきか、そのためにはどんな取材体制と危機管理をすべきかと真剣に考えているのだろうか。最初から事件に巻き込まれた場合の会社の損害を計算して安全地帯に引きこもるようなメディアでは、とても「ジャーナリスト集団」とはいえない。

 橋田さんらが殺害されたとき、日本のマスコミはイラク現地に5社しかいなかった。共同通信3人、朝日新聞2人、毎日・産経新聞各1人、NHK(人数は公表せず)の5社。取材拠点はいずれもバクダット市内で、サマワではない。「サマワは非戦闘地域だから、戦闘地域・バクダットで取材する」と考えたわけではないだろうが、読売、日経、民放各社は、4月8日に陸上自衛隊宿営地近くに迫撃砲が撃ち込まれた直後、「戦場記者」を自衛隊機でクウェートに「避難」させてしまった。
宿営地および陸自の活動範囲が「非戦闘地域」かどうかは、イラク特措法(イラク復興支援特別措置法)の国会論議で大きなポイントだった。ジャーナリストの立場からすれば、「どこが戦闘地域で、どこが非戦闘地域かなんて、私に聞かれたって分かるはずがないじゃないですか」と開き直った小泉純一郎首相が、いかにいい加減な政治家かを裏付ける格好の素材だったはずである。

 現場に行かなければ「小泉首相の化けの皮」を暴くことはできない。それこそ「自己責任」でジャーナリズムの世界に飛び込んだ記者・カメラマンたちだ。自ら現場取材を放棄しているようではジャーナリストといえない。したがってマスコミのイラク報道は、政府・自衛隊の情報操作という掌の上で戯れる「情報伝達」に過ぎなくなっている。マスコミ側にも言い分はあるだろう。日本新聞協会と民放連は、防衛庁との間で細かい取材上の約束事を文書で取り交わしている。防衛庁の「当面の取材について」と題した「お願い」を読むと、「自粛事項」だらけだ。「部隊、装備品、補給品等の数量」さえも「自粛事項」。要するにプレスカードをもらった「従軍記者」は、「部隊の意図」以外のことは何も書けないということだ。これでは「言論の放棄」「編集権の放棄」ではないか。「大本営発表たれ流し新聞」となった戦前の新聞界の姿と少しも変わらないではないか。

 

首相秘書官恫喝は氷山の一角

 

日朝首脳会談取材のために小泉首相に同行した記者・カメラマンは120人だった。「北朝鮮にコメ25万トン援助」と報じて同行取材を拒否されそうになった日本テレビも同行したが、日テレの一件=首相秘書官・飯島勲氏の言動は、権力側のメディア支配の傲慢さを見せ付けた。日テレが内閣記者会に対して異例の経緯説明をし、翌5月17日の『毎日』が「官邸の権力主義」と書いたため、官邸側も「反省すべきことも多いと思う」(細田博之官房長官の会見)と頭を下げた。しかし、「国益に反する報道」「情報源を明かせば同行を許可する」という飯島秘書官の発言は、一個人、一政権の資質の問題とは思えない。目の上のタンコブだった福田康夫官房長官の“失脚”を狙っていた飯島秘書官は、「日テレの情報源は福田官房長官」とみて過剰反応した。その意味で”官邸内権力抗争”のトバッチリの要素もあるが、報道統制を当たり前と考える権力側の感覚がまかり通る「取材する側とされる側の関係」が明るみに出たケース。氷山の一角にすぎない。となると、報道管制をかいくぐって報道される記事は、「情報操作者と情報という餌に飛びつくマスコミとの連鎖の残滓」、つまりゴミ情報と言わざるをえない。

 誰しも取材先とは「いい関係」でありたいと思うだろう。
いい人間関係を保っていれば、時々「いいネタ」をリークしてもらえることも事実だろう。しかし、ジャーナリズムの仕事は、話をしたくない人から話したくない話を引き出す、隠そうとしている事実を抉り出すことではないのか。 

個人情報保護法という名のメディア規制法が成立し、情報を管理する側が堂々とメディアの選別をするとんでもない時代となっているというのに、大手マスコミと企業ジャーナリストには危機感がなさすぎる。この国を誤らせているのは、私利私欲に走る政治家・政党ではなくマスコミ、とりわけ大新聞テレビではないかとさえ思う。

 

多国籍軍参加の詭弁を暴け

 

 参院選の重大な争点のひとつである自衛隊のイラク多国籍軍参加問題についても大新聞の視点は甘い。甘いというより、小泉首相の「なし崩し的政治手法」を支えているかのようだ。小泉内閣メールマガジン」(6月17日)に、「サミットと国会を終えて」と題したメッセージが掲載されている。
〈小泉純一郎です……新しい全会一致の国連安保理決議のもとでの自衛隊の支援活動は、(1)日本の指揮下に入る、(2)非戦闘地域に限る、(3)武力行使と一体にならない、(4)イラク特別措置法の枠内、これら4点を守って、イラク暫定政府が要請した多国籍軍の中で、これまでどおりの人道復興支援活動を行うことになります〉
 


 米軍主導の多国籍軍に参加して、そんな「一国平和主義」が可能なのか。普通の常識と想像力があれば「政府統一見解は詭弁」と考えるのが当然だろう。でも、大新聞社の記者・デスクたちはそうではないようだ。各国軍隊の指揮権を各国が有するのは当たり前の話。問題は「監督・総括責任者は誰か」ということだが、小泉政権は国連安保理決議1546の「多国籍軍はUNIFIED COMMANDのもとにある」とした「UNIFIED COMMAND」を、初めは「統一した指揮」と訳した。だが「これでは米軍指揮下に入ることがミエミエ」と気づき「統合された司令部」とあいまいな翻訳に変え多国籍軍参加の屁理屈=政府統一見解をまとめ上げたのだ。『毎日』は6月16日夕刊で米大統領報道官の記者会見での発言を〈イラク派遣多国籍軍「米司令部の監督下に」米軍主導色強く〉と報じた。だが、『朝日』は〈自衛隊「日本が指揮」〉がメイン見出しで、『読売』にいたっては、なぜか一行も触れていない。私は常々「日本の政治をダメにしたのは大新聞」と思っているが、これからは政治だけではなく「日本そのものをダメにした大新聞」との視点で新聞を読まなければならないと痛感している。

 

『週刊文春』発禁事件は「他人事」

 

田中眞紀子元外相の長女の離婚を暴露した『週刊文春』(3月25日号)の発禁処分(後に東京高裁が取り消し)をめぐる報道も、この国のジャーナリズムの危うさを表した。言論の自由の問題として真正面から取り上げるのではなく、「一部メディアの暴走」という捉え方が散見された。とりわけ朝日新聞、読売新聞はひどかった。『朝日』は3月18日付の社説で〈私人のプライバシーを興味本位で暴きながら、表現の自由をその正当化に使っている〉〈公権力介入の口実を与えた週刊文春には改めて反省を求めたい〉と書いた。『読売』も同日の社説で〈「表現の自由」を振りかざしてプライバシーを侵害するようなことが横行すれば、かえって民主主義の根幹を崩しかねない〉と書いた。836万部の『朝日』、1015万部の『読売』(いずれも朝刊発行部数=公称)の行間から、「俺たちは真っ当なジャーナリズムだ」「お前たちとは違う」「迷惑だ」との週刊誌蔑視が露骨に読み取れる。彼ら骨の髄からエリート意識に凝り固まっているのだろうか。

 私自身、「田中真紀子長女 わずか一年で離婚」と題した3頁の記事には多少の関心はあったが、記事自体に公益性・公共性があるとは思わない。しかし、東京地裁が週刊誌の出版差し止め仮処分命令を下したこと、つまり「発禁処分」を行なったことは、ジャーナリズムに身を置く人間にとっては「明日は我が身」と受け取るのが当たり前ではないのか。仮に「文春発禁事件」が米国で起きたらメディアはどう反応したか。ニューヨーク大のR・ボイントン教授は『週刊文春』(4月1日号)でこうコメントしている。
〈米国の連邦裁判所が同じような命令を下したら、メディアは一致団結した反応を示すだろう。ニューズウィーク、タイム、ワシントン・ポストなどに加え、全米の弁護士が駆けつけてくると思う。米国のメディア間の競争はとても激しいが、こういう形で自分たちが脅かされれば、皆団結する。言論・出版の自由を保障した憲法修正第一条が少しでも侵されれば、大きな非難の声が沸き起こる〉

 日本国憲法第21条にも、〈言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する〉〈検閲は、これをしてはならない〉との立派な条文がある。「大きな非難の声が沸き起こる」米国と、同業者から「裁判所も文春も反省しろ」との声が起きるニッポン。彼我の違いは何に起因するのだろうか。『フォーブス』アジア太平洋支局のB・フルフォード支局長は〈今回のケースはメディア規制の色彩が濃い。自民党vsテレビ朝日の問題にも通じるが、政府は、都合の悪いことを報道させないようマスコミを“調教”している。それでなくても、日本では今書けないことが多いのに、これでまた書けないことが増えることになる〉(『週刊文春』四月1日号)と警告している。
 政府に調教されていることに気づかないマスコミ、過去に学ばないニッポン人…『週刊文春』発禁事件は、外国人ジャーナリストなどから見ると、そうしたニッポン及びニッポン人の構造的欠陥と直結して見えるのではないか。 皇室報道でも、
皇太子の「人格否定発言」の意味を英紙『タイムズ』が「病気のプリンセスを巡る皇室の混乱」と書き、それを『週刊新潮』が取り上げなければ、大新聞TVは「宮内庁お下げおろし記事」しか書かなかっただろう。

 

週刊誌が口火を切って新聞TVが後追い

「正しい世論は自分たちが作る」と公言してやまない大新聞社と記者たちは、言行不一致という意味で小泉純一郎首相と同罪である。先の国会で「年金未納ドミノ」と、珍しく気が利いたキャッチフレーズを繰り返し使った『朝日』をはじめとする大新聞だが、その口火を切ったのはいずれも出版社系週刊誌だった。
江角マキコさんの年金未納を取り上げたのは『週刊現代』(四月3日号)、福田康夫氏の官房長官辞任の引き金記事を載せたのは『週刊文春』(5月13日号)だった。『週刊文春』は5月25日号でも民主党・小沢一郎氏の未加入を書いた。おそらくそれを察知したからだろう。小沢氏は発売日の3日前に代表選出馬を辞退した。さらに小泉首相の未加入は『週刊ポスト』(5月28日号)の記事だった。
つまり「年金ドミノ政局」を作ったのは週刊誌で、大新聞は週刊誌の「後追い」と「結果報道」に振り回されただけなのだ。

古い話を持ち出せば、田中角栄元首相の金脈と女性問題を暴いたのは『文藝春秋』だし、宇野宗佑元首相の「神楽坂芸者醜聞」を暴いたのは『サンデー毎日』だった。もっともこのケースは毎日新聞社に情報がもたらされたが、編集局は「新聞には馴染まない」と『サンデー毎日』編集部に情報を“転送”、当時の編集長が個人的な「神楽坂人脈」を生かしてウラをとったもの。いまやTⅤタレントとして活躍中の浜田幸一元衆議院議員の傷害の前科・服役の事実を暴いたのも『サンデー毎日』だった。一流大新聞TVの一流記者達は一体何をやっているのだろう。少なくとも週刊誌に「反省を求める」資格はない

 

靖国参拝違憲判決を改憲に悪用

 

4月7日、福岡地裁(亀川清長裁判長)は、小泉首相の靖国神社参拝に対する国家賠償請求訴訟の判決で「靖国参拝は、政教分離を定めた憲法20条3項が禁止する宗教活動に当たり違憲」との判断を下した。判決自体は国の勝訴で賠償請求は却下された。この判決への社説を読み比べると、各社の「戦前の天皇制軍国主義」「戦争責任の受け止め方」「平和憲法を守る姿勢」の違いがよく分かる。8日付朝刊で、『朝日』は「小泉首相への重い判決」、『毎日』は「首相は真摯に受け止めよ」と書いた。改憲派の『読売』は小泉談話に沿って「伊勢神宮参拝も違憲になるのか」、『産経』は「判例を曲解した違憲判決」と批判した。

どの新聞も金太郎飴状態よりも、主張をはっきり出した方が読者の新聞選択の基準が明確になっていい。しかし注意すべきは、改憲推進派がこの判決を悪用する危険があることだろう。なにせ、小泉首相は「なぜ憲法違反かわからない」と開き直る人物だ。お得意の「憲法が時代に会わない」との屁理屈を持ち出して神道的宗教活動を合憲にする動きが必ず出てくる。今後、改憲問題を軸に、権力を握る側からの「いいメディア、悪いメディア」の選別がますます厳しくなる。雑誌の世界も「大手とアウトサイダー」の選別が進むだろう。販売員の「情」と「拡材」の力によって販売部数を維持する大新聞。セックス・スキャンダル・羊頭狗肉の見出しで生き延びる週刊誌……読者・視聴者の「正しい判断力」がなければ、この国は「バカの壁」、いや「バカの塀」の中に閉じ込められてしまう。イラク戦争=自衛隊派遣を「ジャーナリズムの命日」にしないために読者の批判が必要だ。(了)                                 
                            

わが家の猫達

「猫の手」と、ともに暮らした猫たちをご紹介しましょう。順番に、慎之介、黄菜子、小助、風太、太助、ケリー、大吉、栗丸、まるこ、新八。現在同居中は、まること「さくら猫」の亜青(あお)です。 

猫の手 動画

動画は時々更新します。

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